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by utah_jazz12to32
| 2017-08-06 19:23
| 熊本県の城跡
武田家史跡としてここは外せない恵林寺へ。
信玄公墓所は残念ながら撮影禁止。宝物館を見てから境内の食堂で蕎麦と鳥もつ煮を食べましたが、かなーりイマイチ。心頭滅却しても熱いものは熱い、不味いものは不味い。
恵林寺をあとにして天目山方面へ。
武田家最後の戦いとなった田野古戦場跡地にある景徳院へ。
勝頼・信勝・勝頼夫人墓所。時に勝頼37歳。北条夫人とも呼ばれる勝頼室は19歳、嫡子信勝は16歳の短すぎる生涯でした。境内には三人の生害石(自害した石)などが。
湧水で勝頼の首を洗ったと伝わる首洗い池。今は池ではなく川のようになっています。
古戦場跡の碑。ほかにも四朗作古戦場という碑がありました。
わずか数十名で織田軍からの逃避行。籠城するはずだった岩殿城の小山田には裏切られ、行くあてもなく歩く勝頼主従の絶望感たるやいかに。静かな山あいの風景が悲哀感を誘います。
甲斐大和駅前に立つ勝頼像。勇ましく軍配を振るう姿は信玄公も落とせなかった高天神城を落城させた絶頂期の姿でしょうか。
武田家とは関係ありませんが、田野には三大キリシタン大名の一人である有馬晴信の居館跡、墓所があります。
南蛮船を撃沈させて得意になっていたら詐欺にあい、島原からこんな所まで飛ばされた挙句に斬首とは。ある意味勝頼に負けず劣らずの悲哀ある人生です。できれば島原に改葬してあげたいものです。
甲州市から甲府市内に戻って甲府城跡を見学しようとしましたが、日没で石垣以外まったくわからず。甲府駅前の信玄公像を撮影したあと、駅行内で土産を買って帰途につきました。
ベタに風林火山茶。
信玄餅をはじめ、やはり武田にちなんで名づけられたお土産が多かったです。中には「信玄豚と○○菜」なんていうお土産も。豚にまで信玄公をつけてしまうのはどうなのよと、最後にやや釈然としない気持ちにさせられ初の山梨旅行を終えました。
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by utah_jazz12to32
| 2016-08-30 20:11
| 古戦場跡
躑躅ヶ崎館跡を散策した後は甲府市内の武田家ゆかりの史跡巡りに。
まずは信玄公墓所へ。地元の方でしょうか、年配の女性が丁寧に手入れされておられました。
墓所は恵林寺や高野山にもありますが、ここは最初に埋葬された場所らしい。
掘り返してみたら実は信玄公を葬った所なんてわかったら、そりゃービビりますわな。
続いて近くの円光院にある三条夫人(信玄公正室)墓所へ。
大河ドラマ「武田信玄」では悪妻っぽく、「風林火山」では比較的穏やかな女性にされていましたが、実像やいかに。快川和尚によると深い信仰心を持ち、梅の花に例えられるような美人だったとか。
続いて四男勝頼公の菩提寺である法泉寺。
猛将ですが武田家を滅亡させたことで芳しくない評価も多い勝頼公ですが、新田次郎の「武田勝頼」を読むとどうしても同情的になってしまいますね。もし長篠で決戦に及んでいなければ、もし御館の乱で上杉につかなければ・・・。
駆け足で甲斐善光寺へ行ってから・・・。
東光寺。妹婿の諏訪頼重を自害に追い込み、長男義信君も幽閉された上に死を迎えた場所です。
二人のお墓は並んでいました。手前が頼重君、奥が義信君の墓石。
父を追い出し、跡継ぎを閉じ込めて死に追いやる業の深さ。戦国当主の精神的な苦悩やいかに。当時の人生50年というのもうなずけます。
信虎墓所、甲府城跡などまだまだ見たい所はあったのですが、日没までに市外の史跡を見に行かねばならず、ここで甲府脱出。うーん、駆け足で廻ったおかげでイマイチ印象が薄い史跡巡りとなってしまいました。
今度は余裕を持ったスケジュールを組んで再訪したいと思います。また来るぞ、甲府市!
あ、市外の史跡見てから夜にまた戻ってきたわ・・・。
まずは信玄公墓所へ。地元の方でしょうか、年配の女性が丁寧に手入れされておられました。
墓所は恵林寺や高野山にもありますが、ここは最初に埋葬された場所らしい。
掘り返してみたら実は信玄公を葬った所なんてわかったら、そりゃービビりますわな。
続いて近くの円光院にある三条夫人(信玄公正室)墓所へ。
大河ドラマ「武田信玄」では悪妻っぽく、「風林火山」では比較的穏やかな女性にされていましたが、実像やいかに。快川和尚によると深い信仰心を持ち、梅の花に例えられるような美人だったとか。
続いて四男勝頼公の菩提寺である法泉寺。
猛将ですが武田家を滅亡させたことで芳しくない評価も多い勝頼公ですが、新田次郎の「武田勝頼」を読むとどうしても同情的になってしまいますね。もし長篠で決戦に及んでいなければ、もし御館の乱で上杉につかなければ・・・。
駆け足で甲斐善光寺へ行ってから・・・。
東光寺。妹婿の諏訪頼重を自害に追い込み、長男義信君も幽閉された上に死を迎えた場所です。
二人のお墓は並んでいました。手前が頼重君、奥が義信君の墓石。
父を追い出し、跡継ぎを閉じ込めて死に追いやる業の深さ。戦国当主の精神的な苦悩やいかに。当時の人生50年というのもうなずけます。
信虎墓所、甲府城跡などまだまだ見たい所はあったのですが、日没までに市外の史跡を見に行かねばならず、ここで甲府脱出。うーん、駆け足で廻ったおかげでイマイチ印象が薄い史跡巡りとなってしまいました。
今度は余裕を持ったスケジュールを組んで再訪したいと思います。また来るぞ、甲府市!
あ、市外の史跡見てから夜にまた戻ってきたわ・・・。
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by utah_jazz12to32
| 2016-08-17 20:23
| 山梨県の城跡
前々より行きたいと思っていた信玄公詣で。
帰省のついでにようやく決行。隣の県とはいえど、甲府市まで車で約3時間。車でも疲れるのに、武田軍よくもまぁ静岡まで攻めてきたものです。まずは武田3代の本拠地躑躅ヶ崎館跡(現武田神社)へ。
武田神社前には御一門衆でありながら徳川に寝返り、本能寺の変で土一揆勢にやられてしまった穴山梅雪の屋敷跡。新田次郎の「武田勝頼」を読んだ後では、どうにも悪い印象しかない武将。私的には武田二十四将から外したい人物です。周辺にも家臣の屋敷跡があるようですが、いかんせん日帰りで時間がありませんので今回はパス。
主郭は拝殿、神楽殿、宝物館など普通に神社となっていますが、敷地内には立派な土塁、水堀空堀、虎口など見所満載。館とはいえ、やはりそれなりの防御態勢はとっていたみたいですね。
大手門周辺の空堀の規模がすごい。信玄は城を持たなかったという話からてっきり防御設備などないただの屋敷だと思っていました。「人は城、人は石垣、人は堀」と言いましても、さすがに攻められちゃったらそうも言ってはいられません。
土塁に石垣。通りかかったおじさんがこれが武田時代の石垣、こっちは江戸時代の石垣と教えてくれましたが、見た目では区別がつきませんでした。
信玄の娘が生まれた時に産湯として使ったという姫の井戸。井戸から茶器が出てきたそうで、宝物館で展示してありました。
一通り主郭を見てから外に。周辺は発掘調査後に公園化されています。ちなみに神社の入り口は大手門跡ではなく、昔の大手門はこちら。ここらは三日月堀跡が発掘されたり、家臣団の屋敷跡だったり往時は重要な地域だったようです。
ぐるっと外を廻るとおそらくあれが要害山城跡。信玄公生誕の地と言われる場所なので、ぜひ登城したかったのですが、時間を考えて今回は泣く泣くスルー。
要害山城跡を拝んでから立派な虎口を抜けて西曲輪へ。西曲輪は廃嫡されて悲劇的な最期を遂げる義信が館を構えていたとのこと。父は追放、長男は幽閉死。戦国大名家に親兄弟との争いはよくある話ですが、信玄公もなかなかに業が深い武将です。
神社前のお土産屋さんには武田グッズがいっぱい。ゆるキャラ菱丸君。ひこにゃんみたいに有名になれるといいですね。甲斐犬をモチーフにしてかわいらしいですが、やはり元祖として赤備えにしてほしかったかな。
掌サイズの風林火山軍旗を買いました。職場に置いておりますが、なかなか仕事は疾きこと風の如くとはいきません。たまに火の如く怒られますが。
歴史好きでない人にはただの神社。けれど四天王や山本勘助や板垣信方ら古参の有力家臣団が幾多のドラマを繰り広げ、信虎が築いてから滅亡に至るまで武田3代の盛衰の舞台になった躑躅ヶ崎館跡。時間を超えて彼らと同じ場所に立っていることは、本当に感慨深いものがありました。
次は甲府市内の武田家史跡をまわります。
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by utah_jazz12to32
| 2016-07-24 22:14
| 山梨県の城跡
戦国時代、相良氏の支配下にあった水俣城。
北進する島津軍に攻められ落城。豊臣時代は直轄地、小西領を経て、関ヶ原以降は加藤清正の領地になり、1612年幕命により破却されました。
グラウンド整備時に発掘されたらしい石垣。
本丸には石碑が立っていましたが、文字が読めずなんの石碑かは不明。
唯一のちゃんとした遺構はこの古井戸跡のみ。
清正時代に整備されたものでしょうか。所々に破却されたであろう石垣が残っています。
城山の隣も小高い丘で、曲輪・土塁・・・だと思いたいのですが、公園として造成されたものなのか私には判別がつきませんでした。でも物見にはピッタリな気がするんだよなぁ。
率直に言いますと、何度も見に来るような遺構があるわけでもなく、発掘調査はされたものの保存状態も良いとは言い難く、イマイチな城跡なのですが、水俣城攻防戦を有名にした逸話があります。
天正時代、水俣城を攻める島津軍から打ち込まれた一本の矢文。それには「秋風や 皆また落ちる木の葉かな」の和歌が記してありました。秋に舞い落ちる葉っぱのように水俣城のお前らも全滅するんだよ、といったところでしょうか。
脅しとも挑発ともとれる島津軍の歌に対して相良軍も負けずに「寄せては沈む 月の浦波」と返歌を撃ち返したそうです。こちらは攻めるお前らこそ月の浦の岸壁に砕ける波のように沈みやがれ、みたいな内容。負けていません、相良軍。結局降参するんですけれども。
この歌合戦をかましたのは島津の重臣、新納(にいろ)忠元、相良方は犬童(いんどう)頼安だったと伝わります。新納は秀吉に対しても即座に返歌するなど、鬼武蔵と称されるほどの強さだけでなく教養のある武将としても評価の高い人だったようです。
戦の中にも日本人ならではの風流を感じさせる水俣歌合戦、数ある戦国時代の逸話の中でも非常に気に入っている話です。スピーカーを持ち出して大音量で相手を揶揄したり、それに激怒してミサイルを撃ち込むどこぞの国々はこういった風雅を見習っていただきたいものです。
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by utah_jazz12to32
| 2016-01-12 23:14
| 熊本県の城跡