水俣城跡と歌合戦(熊本県水俣市)

戦国時代、相良氏の支配下にあった水俣城。
北進する島津軍に攻められ落城。豊臣時代は直轄地、小西領を経て、関ヶ原以降は加藤清正の領地になり、1612年幕命により破却されました。

グラウンド整備時に発掘されたらしい石垣。

本丸には石碑が立っていましたが、文字が読めずなんの石碑かは不明。

唯一のちゃんとした遺構はこの古井戸跡のみ。

清正時代に整備されたものでしょうか。所々に破却されたであろう石垣が残っています。

城山の隣も小高い丘で、曲輪・土塁・・・だと思いたいのですが、公園として造成されたものなのか私には判別がつきませんでした。でも物見にはピッタリな気がするんだよなぁ。
率直に言いますと、何度も見に来るような遺構があるわけでもなく、発掘調査はされたものの保存状態も良いとは言い難く、イマイチな城跡なのですが、水俣城攻防戦を有名にした逸話があります。
天正時代、水俣城を攻める島津軍から打ち込まれた一本の矢文。それには「秋風や 皆また落ちる木の葉かな」の和歌が記してありました。秋に舞い落ちる葉っぱのように水俣城のお前らも全滅するんだよ、といったところでしょうか。
脅しとも挑発ともとれる島津軍の歌に対して相良軍も負けずに「寄せては沈む 月の浦波」と返歌を撃ち返したそうです。こちらは攻めるお前らこそ月の浦の岸壁に砕ける波のように沈みやがれ、みたいな内容。負けていません、相良軍。結局降参するんですけれども。
この歌合戦をかましたのは島津の重臣、新納(にいろ)忠元、相良方は犬童(いんどう)頼安だったと伝わります。新納は秀吉に対しても即座に返歌するなど、鬼武蔵と称されるほどの強さだけでなく教養のある武将としても評価の高い人だったようです。
戦の中にも日本人ならではの風流を感じさせる水俣歌合戦、数ある戦国時代の逸話の中でも非常に気に入っている話です。スピーカーを持ち出して大音量で相手を揶揄したり、それに激怒してミサイルを撃ち込むどこぞの国々はこういった風雅を見習っていただきたいものです。