大村純忠と三城七騎籠(長崎県大村市)
日本で初めてのキリシタン大名、大村純忠。
目立った遺構は残っていませんが、その居城であった三城城跡。現在本丸跡は戦没者のための長崎県忠霊塔が建立されています。
英霊に遠慮してか、城跡の石碑は本丸跡の隅の方で転がされておりました。せめて立てればいいのに。
周囲を散策すると、空堀跡や土塁。
大手口からの登城路であったと思われる石段などが、わずかに往時を偲ばせます。
大村純忠は島原半島を拠点とする有馬氏の次男として生まれます。有馬氏の政略拡大のために彼杵の大村氏に養子に出され、大村純忠を名乗ります。ところが大村氏には本来家督を継ぐべき嫡子がいたため、ややこしいことに。
結局大村氏の実子は佐賀県武雄市の後藤氏に養子に行き、後藤貴明を名乗ります。純忠を完全に敵視した彼は、ポルトガルとの貿易や布教の拠点として栄えた横瀬浦を壊滅させるなど、豊臣秀吉が九州征伐に来るまで、平戸の松浦党や佐賀の龍造寺などとともに、度々大村領を襲撃して純忠を悩ませます。
この後藤貴明による三城城襲撃事件が、タイトルの三城七騎籠(さんじょうしちきごもり)。松浦氏、西郷氏と共謀して1500名ほどの軍勢を率いて三城城を急襲。突然の出来事に大村方はすぐに迎撃態勢がとれず、おもだった家臣7名と婦女子を含むわずか70名余りの人数で篭城を余儀なくされました。
この絶望的な状況に最期の杯を交わすなど、純忠も覚悟を決めたようですが、駆けつけた家臣が城外で敵将を騙し討ちにするなどの機転をきかせ、20倍以上の軍勢からかろうじて城を守りきったという、大村方が優秀だったのか、後藤方がお粗末なすぎたのか、よくわからない攻城戦でした。
三城七騎籠ではなんとか城を保った純忠ですが、肥前最強勢力になった龍造寺隆信には抗しきれず、家族を質にとられた上に、結局三城城から追い出されるという屈辱的な扱いを受けることになります。龍造寺への隷属状態は、隆信が沖田畷の戦いで討ち死にするまで続くのでした。
家督を嫡子に譲り、三城城から数キロ離れた土地に構えられた坂口館跡。
家督相続のゴタゴタを引きずり、キリスト教強制による反発からいつまでも一枚岩にならない家臣団、そして龍造寺の圧迫と、紆余曲折ありすぎて心休まらなかったであろう純忠の人生。最後は闘病と信仰の中で静かに生涯を終えました。
地方の小領主として合戦での華々しい活躍もなく、全国的な知名度もない大村純忠ですが、遣欧少年使節の派遣や長崎開港の先駆けなど、日本史に確かな足跡を残した大名でした。
「信長の野望」でも能力は低いんですけど、つい贔屓して使ってしまいます。
by utah_jazz12to32
| 2011-09-15 04:41
| 長崎県の城跡