城跡散歩

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藤堂高虎と今治城(愛媛県今治市)

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「武士たる者、七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と、なんだかよくわからない基準を持った藤堂高虎が築城した今治城。

立派な望楼型の模擬天守ですが、往時は建築期間やコストを削減できる、新しいタイプの層塔型天守が聳えていました。


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水に浮かぶ美しい砦のような趣の今治城。
姫路城や熊本城など、名城と言われる多くの城の縄張りは、本丸に辿りつくまで複雑な通路や仕掛けを幾重にも重ねた防御態勢が採用されていますが、今治城は本丸、二の丸、三の丸が隣接する至ってシンプルな縄張りとなっています。


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虎口には侵入者を阻む分厚い鉄御門。城内には再建された多聞櫓も。

今治城の防御姿勢は「入らせなきゃええやん」ということらしいのですが、侵入を防ぐため石垣を高くして、海水を引き込んだ堀は鉄砲の射程外になるよう幅を広くとるといった高虎築城術の特徴が集約されています。石垣下には犬走りというスペースがあり、石垣のメンテナンスや石垣に取り付く敵を迎撃するなどの用途が。

さらに城壁には無数の狭間と櫓からは大砲までぶっ放せるような大砲狭間とでもいうのでしょうか、大きな窓が備え付けられています。防御、攻撃面で新兵器に対応した高虎の工夫が随所に見てとれる今治城です。

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天守からは見事な瀬戸内海の景が。往時は海から堀に直接船で出入りができたそうで、三大海城たる所以。


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築城名人としても、武将としてもなかなかの活躍をした高虎ですが、やはり主君を何度も変えたせいでしょうか。風見鶏などと揶揄されて、知名度の割には今一つ人気は高くない印象です。

しかし最初に仕官した浅井家は滅亡、秀吉の実弟秀長に仕えるも病死と、やや不運の向きもあった上に、才能がなければ秀吉、家康といった時の天下人に重用されることもなかったわけで。さらに一旦仕えた主君には忠節を尽くします。特に家康に対しては、死後に来世でも仕えられるよう家康と同じ宗派に変えたという逸話があるほど。私としてはもっと日の目を当ててほしい武将なんですけどね。

タオル生産日本一の今治市、タオルの腹巻をした鳥の「バリィさん」というゆるキャラがいます。なんで鳥なんかなーと思っていたら、今治市は焼鳥でも有名だそうで。

ゆるキャラとして食用というのはどうなんでしょうか。
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# by utah_jazz12to32 | 2012-01-19 04:04 | 愛媛県の城跡

浅井家落胤と杵築城跡(大分県杵築市)

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秀吉の九州征伐前は大友と島津の争いの場であったり、関ヶ原合戦時は大友家再興を目指した宗麟の愚息義統や黒田如水が争ったりと、城の知名度はありませんが、関わった武将は知名度の高い杵築城。ほかにも五奉行前田玄以や秀吉の腹心だった宮部継潤、細川家の名家老、松井康之などが城代を務めました。

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城跡自体はイマイチな公園にされていて、劣化臼杵城のような遺構は率直に言ってイマイチ。見所らしい見所はほとんどありません・・・が!資料館である模擬天守になんとも不思議な言い伝えの具足が。

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一見普通の具足ですが、なんと浅井長政の次男のものだとか。次男いたんですか?そもそも小谷落城後に殺された万福丸のほかに息子がいたんですか?

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http://sirmurai.cocolog-nifty.com/chible/2011/10/post-64d3.html

残念ながら学術的に確たる証拠はないようですが、この次男万菊丸の息子が杵築浅井家と細川浅井家として血筋を残しているという説のようです。

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落城した小谷城より持ち出したとされる炭。私的にはうーん、これはちょっと…といった遺物ですが、源平の頃より九州は落ち武者伝説などの多い地域です。歴史ロマンの一つとして興味深い話ではあります。

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あとはこんな所に石田三成の兄、石田正澄の兜。佐和山落城時に宮部家中の武士に分捕られてしまったようですね…。その後宮部家は杵築城主になった能見松平家に仕えたため、杵築に代々伝わってきたそうで。

石田正澄は漫画「花の慶次」で堺奉行を務めていて「もうこんな役目ヤダヤダァ!三成に言って替えてもらおう」みたいな台詞を言わされていた人物と言えばわかりやすいでしょうか。漫画ではひどすぎるくらい無能バカ系キャラに描かれていましたが、史実ではなかなか優秀な人だったみたいです。

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杵築で必見なのは、城跡ではなく良い風情を残した城下町跡。ドラマのロケにも使われたこともあるそうで、歴史を感じながら散策するにはうってつけ。カフェとして営業している武家屋敷跡もあり、縁側で抹茶をいただけます。

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城下町とはまったく関係ありません。さすがにこれは狙い過ぎではなかろうかと。

杵築はもともと木付という地名だったのですが、幕府の役人が間違えてそのまま杵築になってしまったそうで。お上には逆らえませんな。
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# by utah_jazz12to32 | 2011-11-21 04:47 | 大分県の城跡

豊薩戦と角牟礼城(大分県玖珠郡)

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室町以前に築城されたと言われる角牟礼城。

名の知れた城ではありませんが、豊臣秀吉の九州征伐以降、現在の大分県日田市・玖珠郡の領主になり、のちに初代佐伯藩主になる毛利高政が整備した、近世山城の特徴をよく残した見ごたえある城跡です。三の丸まで林道が通じているため、登城は容易。


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三の丸から登って行くと、早速一番の見所、搦手門跡に残る穴太積みの石垣が。やはり戦国の城は野面石垣が似合います。これほどの規模で残っているとは予想外。


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籠城の生命線、湧水を利用した井戸跡。今も水が絶えません。


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二の丸跡、櫓門跡。礎石を見ると上に建っていたであろう建物を想像します。ぜひ往時の姿を見てみたいものです。


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伝大手門跡…ということですが、二の丸と本丸の間に大手門?学者の研究でも縄張りからして大手門ではないと論じられているそうです。枡形を形作る石垣越しの眺望は素晴らしい。


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本丸跡は草が生えまくり。草をかきわけて散策。


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本丸北側にも石垣が。切岸っぽいものもあり、じっくり全容を見たいのですが、勾配が急な上に、植物に覆われすぎていて見づらいのが残念。

角牟礼城は岡城、臼杵城などと同じように、九州征伐前に破竹の勢いで九州統一を目指した島津軍の侵攻を防ぎ、落城しなかった数少ない城の一つでした。

山麓から仰ぎ見ると、こりゃ落とせんわ…と嘆息してしまいそうな急峻な山城で、遺構の残り具合といい、全国的に無名なのが惜しいほど。私的には吉野ヶ里遺跡の替わりに100名城に加えたいほど気に入っているのですが。そもそも吉野ヶ里って城?

関ヶ原の戦いの後に来島氏が玖珠に入り、森藩が成立します。しかし小大名の来島氏は城を持てる格式の大名とは認められず、角牟礼城も廃城となります。来島氏は角牟礼山の山麓に陣屋を築きますが、城を持つことへの憧憬があったようで、陣屋を城郭っぽくしてみたり、天守っぽい茶亭を建ててみたりと、城持ちに未練たっぷりの小大名の悲哀を感じさせる史跡を残しています。

しかし頭上に難攻不落と謳われた立派な城が聳えているのに、使わせてもらえないというのも、幕府は融通がきかないのか意地が悪いのか。
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# by utah_jazz12to32 | 2011-10-13 05:01 | 大分県の城跡

大村純忠と三城七騎籠(長崎県大村市)

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日本で初めてのキリシタン大名、大村純忠。
目立った遺構は残っていませんが、その居城であった三城城跡。現在本丸跡は戦没者のための長崎県忠霊塔が建立されています。

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英霊に遠慮してか、城跡の石碑は本丸跡の隅の方で転がされておりました。せめて立てればいいのに。


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周囲を散策すると、空堀跡や土塁。


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大手口からの登城路であったと思われる石段などが、わずかに往時を偲ばせます。

大村純忠は島原半島を拠点とする有馬氏の次男として生まれます。有馬氏の政略拡大のために彼杵の大村氏に養子に出され、大村純忠を名乗ります。ところが大村氏には本来家督を継ぐべき嫡子がいたため、ややこしいことに。

結局大村氏の実子は佐賀県武雄市の後藤氏に養子に行き、後藤貴明を名乗ります。純忠を完全に敵視した彼は、ポルトガルとの貿易や布教の拠点として栄えた横瀬浦を壊滅させるなど、豊臣秀吉が九州征伐に来るまで、平戸の松浦党や佐賀の龍造寺などとともに、度々大村領を襲撃して純忠を悩ませます。

この後藤貴明による三城城襲撃事件が、タイトルの三城七騎籠(さんじょうしちきごもり)。松浦氏、西郷氏と共謀して1500名ほどの軍勢を率いて三城城を急襲。突然の出来事に大村方はすぐに迎撃態勢がとれず、おもだった家臣7名と婦女子を含むわずか70名余りの人数で篭城を余儀なくされました。

この絶望的な状況に最期の杯を交わすなど、純忠も覚悟を決めたようですが、駆けつけた家臣が城外で敵将を騙し討ちにするなどの機転をきかせ、20倍以上の軍勢からかろうじて城を守りきったという、大村方が優秀だったのか、後藤方がお粗末なすぎたのか、よくわからない攻城戦でした。

三城七騎籠ではなんとか城を保った純忠ですが、肥前最強勢力になった龍造寺隆信には抗しきれず、家族を質にとられた上に、結局三城城から追い出されるという屈辱的な扱いを受けることになります。龍造寺への隷属状態は、隆信が沖田畷の戦いで討ち死にするまで続くのでした。

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家督を嫡子に譲り、三城城から数キロ離れた土地に構えられた坂口館跡。


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家督相続のゴタゴタを引きずり、キリスト教強制による反発からいつまでも一枚岩にならない家臣団、そして龍造寺の圧迫と、紆余曲折ありすぎて心休まらなかったであろう純忠の人生。最後は闘病と信仰の中で静かに生涯を終えました。

地方の小領主として合戦での華々しい活躍もなく、全国的な知名度もない大村純忠ですが、遣欧少年使節の派遣や長崎開港の先駆けなど、日本史に確かな足跡を残した大名でした。
「信長の野望」でも能力は低いんですけど、つい贔屓して使ってしまいます。
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# by utah_jazz12to32 | 2011-09-15 04:41 | 長崎県の城跡

大友宗麟と臼杵城跡(大分県臼杵市)

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私のお気に入り戦国大名で、勝手に三大切支丹大名と命名している大友宗麟(あと二人は大村純忠、有馬晴信)の居城であった丹生島城(臼杵城)。
今は埋め立てで往時の面影はありませんが、海に突き出した土地に築城された天然の要害と呼ぶにふさわしい城でした。


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近くにある国宝臼杵石仏に併設されている博物館に、当時の城を再現した模型が。これだけ海と崖ではなかなか攻められませんで。


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二の丸と本丸の間にある空堀。奥には天守櫓台。
二の丸跡は運動場になっていたり、よくある公園として整備された城跡ではありますが、現存する二基の櫓や石垣、空堀など、見所ある遺構が数多く残っています。


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海に面していた搦手門。非常時にはここから船で脱出できるようにしていたとか。


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二の丸跡にある国崩しのレプリカ。本物は大友氏改易後に豊後に入った稲葉氏が、廃藩の時に政府に献上して靖国神社に展示されています。

博多を荒らして府内(大分市)を占領した島津軍。さらに南下して宗麟の籠もる臼杵城も攻め立てました。すでに家督はダメ嫡子義統に譲り、隠遁していた宗麟ですが、「国崩し」と命名した仏浪機砲二門をぶっ放して見事撃退に成功します。滅亡寸前まで追い詰められて、この数ヶ月後に病没する宗麟でしたが、臼杵城の攻防戦はかつて九州に最大版図を築いた戦国大名として、最後に放った意地と輝きでした。


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国崩しレプリカそばにある宗麟のレリーフ。何やら海賊のボスのようです。

立花道雪をはじめとする有能な家臣を束ねて、九州の3分の2を領土として栄華を極めた時代。キリスト教に傾倒して国まで傾けてしまった転落時代。そして最後は領土のほとんどを失いながらも、信仰の中で安らかに終わりを迎えた宗麟。
波乱万丈を生きた人物は多いですが、宗麟ほど浮沈の大きい人生を送った人物はなかなか見当たらないのではないでしょうか。

そもそも府内から臼杵城に移ったのも、奥さんが嫌で家出したからという、一国の長としてあるまじきなんとも情けない、いや良くいえば人間くさい理由でしたからねぇ。(実際は防衛戦略上の要因も大きかったようです)

宗麟だけでなく龍造寺に脅されまくった大村純忠と、詐欺師に騙されて刑死させられた有馬晴信など、三大切支丹大名はいずれも英雄と呼ぶには程遠い人生を送っています。

信仰を貫いて聖人化した高山右近や、天下を前に劇的な最期を迎えた信長、栄華を極めて死んでいった秀吉のような英傑と違い、この人間味溢れるダメッぷりに私は強く惹かれるようです。


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宗麟の努力も空しく、ダメ息子義統が朝鮮の役で敵前逃亡をやらかして秀吉の逆鱗に触れ、大友氏は豊後から追い出されました。その後臼杵城の城主は入れ替わり、稲葉氏の居城として明治を迎えます。

臼杵城から歩いてすぐ、城下町の面影を色濃く残した町並みが今も残ります。
宗麟が信仰に燃えた生涯を送ったこの土地は、少し前に詐欺事件を起こした小室哲哉の奥さんの出身地でもあります。ご実家はふぐ料理で有名な料亭を営んでおられるそうです。人に歴史あり。
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# by utah_jazz12to32 | 2011-09-03 21:07 | 大分県の城跡

天領日田と丸山城跡(大分県日田市)

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江戸時代には天領(幕府の直轄地)で、東は豊後へ、西は筑後へと、交通の要衝としても栄えた大分県日田市。

全国的には無名の地方都市ですが、ムツゴロウこと作家の畑正憲さんは中学・高校時代をここ日田で過ごしました。あとは「ガンを防ぐことができる、アトピーにも効果がある(かもしれない)奇跡の水」とアンビリーバボーで紹介された「日田天領水」が有名といえば有名。
地元の人は全然飲んでいませんが。

丸山城は「関ヶ原で功のあった小川氏が築城」ということなのですが、関ヶ原に出た小川氏というと、西軍から東軍に寝返った小川祐忠のこと?功があったどころか、事前に約束もない寝返りで、合戦後は改易されたはずですが…。

どうも釈然としないので調べてみると、小川祐忠の息子の光氏が築城。そもそも小川氏が日田に大名として復帰できたのは「祐忠正室の実家一柳氏の奔走」だそうで、功どころか親の七光りというか、蛍大名というか。


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最初の画像にある堀と綺麗な切込接の石垣は後年(明治とも)の建築のようですが、登っていくと本丸跡と思われる付近に往時の野面石垣があり、小規模ながらなかなか見ごたえがあります。この石垣には全国的に珍しい丸い石が使われており、水郷日田だけに川原の石を使ったのでしょうと現地調査発表時に大学教授が話しておられました。確かに今まで丸い石垣というのは静岡の横須賀城跡しか見たことがありません。

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各曲輪はなかなか良好な状態で手入れされています。

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犬も連れて行きました。

城跡周辺は月隈公園として整備され、日田林工高校の敷地になっています。ちなみに今大人気の「進撃の巨人」の作者さんは、この高校のご出身だそうです。


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江戸時代の町割りを生かした「小京都」豆田町が観光のメイン。近くには学者広瀬淡窓が創立し、多くの門下生を輩出した私塾「咸宜園」跡も。淡窓町などの地名も残り、やきもの鑑定で有名な中島誠之助氏も著書を愛読したという、広瀬淡窓の功績が偲ばれます。

ゆるキャラブームにのって「淡窓さん」なるキャラも創ってしまいましたが、ぬらりひょんもどきにしか見えない残念な出来です。市民でさえなじみのないキャラを創るくらいなら、いっそ猫系キャラ「ひたにゃん」でも創って「ひこにゃん」のライバルとして売り出してみてはどうでしょうか。
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# by utah_jazz12to32 | 2011-06-14 12:58 | 大分県の城跡

加藤嘉明と伊予松山城(愛媛県松山市)

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現存12天守の一つとして、愛媛の観光名所になっている松山城。

築城は加藤嘉明。同じ加藤でも、熊本城の加藤清正に対して知名度も低く、ちょっと地味なイメージがあります。清正同様賤ヶ岳の七本槍の一人で、朝鮮出兵でもそれなりに活躍したんですがね。


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築城主の知名度はさておき、個人的に非常に好きな城です。

本丸に至るまでの複雑な縄張り、数多く残された防衛のための櫓や仕掛け。さらに特徴的な連立式天守(天守が小天守や櫓で繋がって口の形を成している)。同じ連立式天守の姫路城に比べて小さめではありますが、何より大天守が突出して大きい姫路城よりもバランスが良く、松山市のシンボルとしてこれ以上の物は望めないと思えるほど、完成度が素晴らしいのです。


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城の麓に建つ加藤嘉明像。

20数年かけて築城するものの、あと一歩で完成というところで、藤堂高虎の推挙もあって会津へ移封。20万石から40万石へ加増されたのですが、関ヶ原以後、心血注いで築城したこの城に相当愛着があったか、「自分に40万石は大きすぎて治められない」と断ろうとしたとか。

高虎の推挙に嘉明の反応は、「余計なことしやがって」説と「仲悪かったのに推挙してくれて感激」説があり。でもやっぱりチクチクと造り続けて完成を楽しみにしていたら異動では、やはり余計なことしやがってじゃないですかね。


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本丸へはロープウェイとリフトで登城できますが、城好きであればぜひ二の丸の石段から徒歩で登って、往時の面影と風情を感じていただきたいものです。また天守や櫓もいろいろな角度から見ることで多彩な表情を感じ取れる、まさに名城と呼ぶにふさわしい城です。松山名物一六タルトもウマー。
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# by utah_jazz12to32 | 2011-05-09 04:33 | 愛媛県の城跡

遠江争奪戦と小山城跡(静岡県牧之原市)

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高天神城跡に行く道中、たまたま見かけて立ち寄った小山城。

桶狭間の戦い後に今川領に進出してきた武田方が、徳川方の高天神城を奪う拠点として、1571年に砦を改修して築城。信玄亡き後、息子の勝頼が首尾よく高天神城を奪取したものの、徳川方の反撃にあって1582年落城。
なかなか立派な模擬天守が建っていましたが、もとは砦だったことと、築城された時代から天守はなかったのではと。月曜日だったため、天守には入れず。

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現在は公園として整備されていて、甲州流と呼ばれる武田方の築城技術である丸馬出しや三日月堀が復元されています。定番の土塁や空堀も。

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一番の見所は甲州流築城術の遺構、三重の三日月堀跡。
落城時には城内の女性たちが身を投げ、その化身である赤い唇を持つヒルが棲むようになったという伝説がありますが、それは後世の創作くさい。
しかしこの堀跡見るためだけでも、立ち寄る価値があります。

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戦没者供養碑。
今川家衰退後の遠江をめぐる武田と徳川の戦いは10年余りに及ぶ熾烈なものでした。のちに天下を治める徳川も、当時は単独では武田方に対抗できないほど小さな勢力でした。信玄が上洛途上で死去していなければ、どうなっていたことやら。

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武田方の城らしく、山本勘助が掘らせたという井戸跡。
実在したのかも疑われる軍師ですが、久能山などにも勘助が掘らせたという井戸跡が残っています。

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城跡の麓に能満寺があり、天然記念物のソテツが植わっています。
このソテツを気に入った家康が、駿府城に持ち帰ったところ、ソテツが毎晩帰りたいと泣いたため、能満寺に戻したという逸話が。

ただっ広い城内で植物が夜な夜な泣くとか…。
怖すぎる。
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# by utah_jazz12to32 | 2011-03-31 07:34 | 静岡県の城跡

黒田如水と中津城跡(大分県中津市)

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秀吉の部下というと、思い浮かぶのは清正をはじめとする七本槍や竹中半兵衛兵、そして黒田如水。本名の孝高や隠遁後の如水より、通称の官兵衛の方が一般には有名ですが、私的には如水が一番しっくりきます。

豊臣秀吉から豊前を与えられ、馬ヶ岳城が不便すぎるということで、新たに建築されたのが中津城。当時は広い敷地に海水を引き込んだ堀を備えており、高松城・今治城とともに日本三大水城の一つに数えられておりますが、現代に残された遺構は残念ながら今治城に比べるとかなりショボい。


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築城を始めたものの、相次ぐ土着の有力者との内戦に大忙しで、結局完成をみないまま、黒田家は関ヶ原の功により、筑前名島(のちの福岡)に大幅加増されて領地替え。
立花宗茂同様、奥さんの方が有名かもしれない細川忠興の領地になります。そして忠興の隠居城として、ようやく中津城は完成。画像は黒田、細川時代の石垣の違い。

この領地替えの際、黒田が筑前に持っていった豊前の年貢を巡り、黒田細川は戦寸前の揉め事に発展。如水の嫡男長政は藤堂高虎とも不仲であり、細川忠興が「あの2人は本当に仲悪いよなー」といった記録があるそうですが、それこそオマエが言うなと言わざるをえません。さらに領主は小笠原氏から奥平氏へと替わり、明治まで奥平氏の居城になりました。


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模擬天守の内部は奥平氏ゆかりの品々の展示が充実。奥平信昌が長篠の戦いで着用したという甲冑や、


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家康から拝領した白鳥の槍。もとは信長のものだったとか。左下の法螺貝は、長篠の戦いで使われたそうです。長篠合戦には欠かせないエピソード、忠臣鳥居強右衛門の磔絵も。
ついでに如水着用のお椀兜をモチーフにしたゆるキャラ「あ!官兵衛(あっかんべー)」も注目といえば注目か。モデルの兜は盛岡に行ってしまっていますが。


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中津城から少し離れますが、城井鎮房謀殺時、城井家臣の血が壁に飛び散り、塗りなおしても血が浮き出てくるために、壁を赤一色にしたという合元寺も如水ファンには見逃せないスポットです。

中津には河童伝説もいくつか残っており、河童の墓や河童の棲んでいた池などが残っていますが、池というより水溜りというか。ここに河童がいたとしても、すぐ干上がるか捕まるか・・・。
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# by utah_jazz12to32 | 2011-02-06 14:16 | 大分県の城跡

立花宗茂と柳川城跡(福岡県柳川市)

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柳川城跡は現在中学校・高校になっていて、往時を偲ばせる遺構はわずかな石垣と、町中を縦横に巡る堀跡が残るのみ。

五層の立派な天守があったそうですが、明治になって政府に接収される前に立花家身内が火を放った・・・、なんて説もありますが、原因不明の出火で焼失。残っていれば九州唯一の貴重な現存天守になっていたのに、残念無念。石垣も堤防の工事でほとんど使われてしまったそうです。

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わずかに天守台の周囲に残る石垣と、

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天守台跡。学生たちの憩いの場に。


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小船に乗って堀を巡る「川くだり」が観光の目玉になっていますが、普通に住宅地を通ったりするので、ちょっと恥ずかしい。

蒲池氏、龍造寺氏と城主は替わり、豊臣秀吉の九州征伐後は、大友宗麟家臣から大名に取り立てられた立花宗茂の居城に。

養父立花道雪が落とせなかった城への入城、さらには道雪の実子で嫁誾千代がゲームに出ちゃったおかげで、旦那以上の知名度を獲得してしまった現状、宗茂の胸中やいかに。

立花家の経営する観光旅館「御花」に資料館があり、宗茂ゆかりの品々が展示されています。

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嫁誾千代がゲームで「唸れ、雷切!」とブン回している雷切や、


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黒田長政との射的競争に勝ってブンどった火縄銃「墨縄」、

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実父高橋紹運より立花家に婿入りする時に「このご時勢ゆえ、もし敵にまわったら迷わずワシを討ちに来い。立花家から離縁されたら帰ってくんな、これで自害しやがれ」と与えられた短刀など、

ファン必見の貴重な収蔵物が展示されていた・・・、というのは撮影時に特別展が開催されていたので、上の画像の品々は常設展示されていない模様。

御花から少し離れますが、歴史ファンに是非訪れていただきたいのは柳川古文書館。
道雪、宗茂ら立花家ゆかりの書状(写しあり)、秀吉や徳川秀忠の書状などが展示してあって、入館はなんと無料。在りし日の柳川城を再現した模型も必見です。

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柳川市内の福厳寺にある立花宗茂墓所。

ジョン・レノンの奥さんオノ・ヨーコさんは、立花家の重臣小野和泉守鎮幸の子孫で、お忍びでジョンも一緒に柳川を訪れたことがあるとかないとか。

田中家が改易となり、柳川に復帰した時には、仕官を望んだ田中家臣たちは一切使わず、領地からも追い出してしまったという、珍しくシビアな対応も。事実上の西軍総大将だった石田三成を捕らえた田中吉政に、多少のわだかまりがあったのでしょうか。

しかし義理堅く誠実な人柄で、諸大名からも一目置かれて、家臣・領民の信頼も厚かったという宗茂。熱い逸話には事欠かない武将であります。浪人している時に主君が家臣に養ってもらった、なんて話はほかに聞いたことがないですよ。
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# by utah_jazz12to32 | 2011-01-18 04:43 | 福岡県の城跡

九州を中心に有名無名問わず、城跡の散策・撮影と歴史背景を探索


by joe-un
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