城跡散歩

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カテゴリ:長崎県の城跡( 2 )

有馬晴信と日野江城跡(長崎県南島原市)

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三大キリシタン大名居城跡を制覇するべく、有馬晴信の居城だった日野江城跡へ。

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※三大キリシタン大名=大村・有馬・大友。

私が称しているだけで、一般的に三大キリシタン大名と呼ばれることはありません。
高山右近・小西行長なども有名なキリシタン大名ですが、九州土着の大名で、さらに3人連名で天正遣欧少年使節を派遣したなどの実績を考慮しまして三大キリシタン大名と。
この呼称広まらないかなあ。

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日野江城は安土城のように、長い石段を備えた珍しい城だったそうです。
帰国した少年使節一行は、晴信へ成果報告をしにこの石段を登り登城したとか。
中浦はなんたってジュリアンさ(by戦国鍋)

残念なことにその貴重な石段遺構、今は埋め戻されてしまっています。
たまたま城跡を管理する職員の方がいらっしゃいまして、いろいろと話を聞く事ができたのですが、やはり管理・保存が難しいということで埋めざるをえないとのこと。

使節渡航中に三大キリシタン大名のうち、大村純忠・大友宗麟は死去。
さらに秀吉がバテレン追放令を発するなど、徐々に時代はキリシタン禁制へ傾きつつありました。
帰国した少年使節はその後伊東病死・千々石棄教・原国外追放・中浦殉教と、激動する時代に呑まれてそれぞれの人生を終えることになります。


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本丸に抜ける道沿いには学校はセミナリヨ跡。(by戦国鍋)
石垣は積み直しのようですが、やたらに広い二の丸、異様に狭い本丸近くの空堀などそれなりに見応えのある城跡です。

しかし日野江城の価値は遺構の規模や残り具合でなく、少年使節や城主晴信とその息子直純など城に関わった人物たちの生き様、またその後の歴史への関わり方にあります。

有馬晴信も大村純忠・大友宗麟同様浮き沈みの激しい人生を送りますが、その最期は岡本大八という同じキリシタンに騙され、大八の道連れのように九州から遠く離れた甲斐(山梨県)で斬首させられてしまうという、他の大名には例を見ない悲劇的なものでした。
大八事件以後、元はキリシタンだった晴信の息子直純も、幕府の禁教令に従い家臣・領内のキリシタンを厳しく取り締まるようになりました。
その後有馬氏は日向に転封、島原に晴信が築こうとしたキリシタン王国は完全に終焉を迎えます。

日野江城から3キロ余りの距離に支城として築かれた原城は、後に江戸幕府を仰天させる日本史上最大の一揆、島原の乱の舞台となります。
その一揆軍で中心的な役割を果たしていたのは帰農した有馬・小西の旧臣たちでした。
そして原城に籠城した一揆軍を囲む幕府軍に参戦していたかつての領主直純と対峙することとなります。

天草・島原は私が歴史に興味を持つきっかけとなった、思い入れの深い土地なのです。
各自治体はキリシタン大名の生き様の面白さを、もっともっとアピールしていただきたいと思う次第。
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by utah_jazz12to32 | 2012-07-11 00:55 | 長崎県の城跡

大村純忠と三城七騎籠(長崎県大村市)

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日本で初めてのキリシタン大名、大村純忠。
目立った遺構は残っていませんが、その居城であった三城城跡。現在本丸跡は戦没者のための長崎県忠霊塔が建立されています。

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英霊に遠慮してか、城跡の石碑は本丸跡の隅の方で転がされておりました。せめて立てればいいのに。


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周囲を散策すると、空堀跡や土塁。


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大手口からの登城路であったと思われる石段などが、わずかに往時を偲ばせます。

大村純忠は島原半島を拠点とする有馬氏の次男として生まれます。有馬氏の政略拡大のために彼杵の大村氏に養子に出され、大村純忠を名乗ります。ところが大村氏には本来家督を継ぐべき嫡子がいたため、ややこしいことに。

結局大村氏の実子は佐賀県武雄市の後藤氏に養子に行き、後藤貴明を名乗ります。純忠を完全に敵視した彼は、ポルトガルとの貿易や布教の拠点として栄えた横瀬浦を壊滅させるなど、豊臣秀吉が九州征伐に来るまで、平戸の松浦党や佐賀の龍造寺などとともに、度々大村領を襲撃して純忠を悩ませます。

この後藤貴明による三城城襲撃事件が、タイトルの三城七騎籠(さんじょうしちきごもり)。松浦氏、西郷氏と共謀して1500名ほどの軍勢を率いて三城城を急襲。突然の出来事に大村方はすぐに迎撃態勢がとれず、おもだった家臣7名と婦女子を含むわずか70名余りの人数で篭城を余儀なくされました。

この絶望的な状況に最期の杯を交わすなど、純忠も覚悟を決めたようですが、駆けつけた家臣が城外で敵将を騙し討ちにするなどの機転をきかせ、20倍以上の軍勢からかろうじて城を守りきったという、大村方が優秀だったのか、後藤方がお粗末なすぎたのか、よくわからない攻城戦でした。

三城七騎籠ではなんとか城を保った純忠ですが、肥前最強勢力になった龍造寺隆信には抗しきれず、家族を質にとられた上に、結局三城城から追い出されるという屈辱的な扱いを受けることになります。龍造寺への隷属状態は、隆信が沖田畷の戦いで討ち死にするまで続くのでした。

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家督を嫡子に譲り、三城城から数キロ離れた土地に構えられた坂口館跡。


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家督相続のゴタゴタを引きずり、キリスト教強制による反発からいつまでも一枚岩にならない家臣団、そして龍造寺の圧迫と、紆余曲折ありすぎて心休まらなかったであろう純忠の人生。最後は闘病と信仰の中で静かに生涯を終えました。

地方の小領主として合戦での華々しい活躍もなく、全国的な知名度もない大村純忠ですが、遣欧少年使節の派遣や長崎開港の先駆けなど、日本史に確かな足跡を残した大名でした。
「信長の野望」でも能力は低いんですけど、つい贔屓して使ってしまいます。
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by utah_jazz12to32 | 2011-09-15 04:41 | 長崎県の城跡

九州を中心に有名無名問わず、城跡の散策・撮影と歴史背景を探索


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