城跡散歩

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甲斐風林火山紀行③天目山古戦場跡(山梨県甲州市)

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武田家史跡としてここは外せない恵林寺へ。

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信玄公墓所は残念ながら撮影禁止。宝物館を見てから境内の食堂で蕎麦と鳥もつ煮を食べましたが、かなーりイマイチ。心頭滅却しても熱いものは熱い、不味いものは不味い。

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恵林寺をあとにして天目山方面へ。
武田家最後の戦いとなった田野古戦場跡地にある景徳院へ。

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勝頼・信勝・勝頼夫人墓所。時に勝頼37歳。北条夫人とも呼ばれる勝頼室は19歳、嫡子信勝は16歳の短すぎる生涯でした。境内には三人の生害石(自害した石)などが。

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湧水で勝頼の首を洗ったと伝わる首洗い池。今は池ではなく川のようになっています。

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古戦場跡の碑。ほかにも四朗作古戦場という碑がありました。

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わずか数十名で織田軍からの逃避行。籠城するはずだった岩殿城の小山田には裏切られ、行くあてもなく歩く勝頼主従の絶望感たるやいかに。静かな山あいの風景が悲哀感を誘います。

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甲斐大和駅前に立つ勝頼像。勇ましく軍配を振るう姿は信玄公も落とせなかった高天神城を落城させた絶頂期の姿でしょうか。

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武田家とは関係ありませんが、田野には三大キリシタン大名の一人である有馬晴信の居館跡、墓所があります。

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南蛮船を撃沈させて得意になっていたら詐欺にあい、島原からこんな所まで飛ばされた挙句に斬首とは。ある意味勝頼に負けず劣らずの悲哀ある人生です。できれば島原に改葬してあげたいものです。

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甲州市から甲府市内に戻って甲府城跡を見学しようとしましたが、日没で石垣以外まったくわからず。甲府駅前の信玄公像を撮影したあと、駅行内で土産を買って帰途につきました。

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ベタに風林火山茶。

信玄餅をはじめ、やはり武田にちなんで名づけられたお土産が多かったです。中には「信玄豚と○○菜」なんていうお土産も。豚にまで信玄公をつけてしまうのはどうなのよと、最後にやや釈然としない気持ちにさせられ初の山梨旅行を終えました。
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# by utah_jazz12to32 | 2016-08-30 20:11 | 古戦場跡

甲斐風林火山紀行②甲府市内の武田家史跡

躑躅ヶ崎館跡を散策した後は甲府市内の武田家ゆかりの史跡巡りに。

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まずは信玄公墓所へ。地元の方でしょうか、年配の女性が丁寧に手入れされておられました。

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墓所は恵林寺や高野山にもありますが、ここは最初に埋葬された場所らしい。
掘り返してみたら実は信玄公を葬った所なんてわかったら、そりゃービビりますわな。

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続いて近くの円光院にある三条夫人(信玄公正室)墓所へ。
大河ドラマ「武田信玄」では悪妻っぽく、「風林火山」では比較的穏やかな女性にされていましたが、実像やいかに。快川和尚によると深い信仰心を持ち、梅の花に例えられるような美人だったとか。

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続いて四男勝頼公の菩提寺である法泉寺。
猛将ですが武田家を滅亡させたことで芳しくない評価も多い勝頼公ですが、新田次郎の「武田勝頼」を読むとどうしても同情的になってしまいますね。もし長篠で決戦に及んでいなければ、もし御館の乱で上杉につかなければ・・・。

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駆け足で甲斐善光寺へ行ってから・・・。

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東光寺。妹婿の諏訪頼重を自害に追い込み、長男義信君も幽閉された上に死を迎えた場所です。

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二人のお墓は並んでいました。手前が頼重君、奥が義信君の墓石。
父を追い出し、跡継ぎを閉じ込めて死に追いやる業の深さ。戦国当主の精神的な苦悩やいかに。当時の人生50年というのもうなずけます。

信虎墓所、甲府城跡などまだまだ見たい所はあったのですが、日没までに市外の史跡を見に行かねばならず、ここで甲府脱出。うーん、駆け足で廻ったおかげでイマイチ印象が薄い史跡巡りとなってしまいました。
今度は余裕を持ったスケジュールを組んで再訪したいと思います。また来るぞ、甲府市!

あ、市外の史跡見てから夜にまた戻ってきたわ・・・。
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# by utah_jazz12to32 | 2016-08-17 20:23 | 山梨県の城跡

甲斐風林火山紀行① 躑躅ヶ崎館跡(山梨県甲府市)

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前々より行きたいと思っていた信玄公詣で。
帰省のついでにようやく決行。隣の県とはいえど、甲府市まで車で約3時間。車でも疲れるのに、武田軍よくもまぁ静岡まで攻めてきたものです。まずは武田3代の本拠地躑躅ヶ崎館跡(現武田神社)へ。

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武田神社前には御一門衆でありながら徳川に寝返り、本能寺の変で土一揆勢にやられてしまった穴山梅雪の屋敷跡。新田次郎の「武田勝頼」を読んだ後では、どうにも悪い印象しかない武将。私的には武田二十四将から外したい人物です。周辺にも家臣の屋敷跡があるようですが、いかんせん日帰りで時間がありませんので今回はパス。

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主郭は拝殿、神楽殿、宝物館など普通に神社となっていますが、敷地内には立派な土塁、水堀空堀、虎口など見所満載。館とはいえ、やはりそれなりの防御態勢はとっていたみたいですね。

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大手門周辺の空堀の規模がすごい。信玄は城を持たなかったという話からてっきり防御設備などないただの屋敷だと思っていました。「人は城、人は石垣、人は堀」と言いましても、さすがに攻められちゃったらそうも言ってはいられません。

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土塁に石垣。通りかかったおじさんがこれが武田時代の石垣、こっちは江戸時代の石垣と教えてくれましたが、見た目では区別がつきませんでした。

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信玄の娘が生まれた時に産湯として使ったという姫の井戸。井戸から茶器が出てきたそうで、宝物館で展示してありました。

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一通り主郭を見てから外に。周辺は発掘調査後に公園化されています。ちなみに神社の入り口は大手門跡ではなく、昔の大手門はこちら。ここらは三日月堀跡が発掘されたり、家臣団の屋敷跡だったり往時は重要な地域だったようです。

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ぐるっと外を廻るとおそらくあれが要害山城跡。信玄公生誕の地と言われる場所なので、ぜひ登城したかったのですが、時間を考えて今回は泣く泣くスルー。

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要害山城跡を拝んでから立派な虎口を抜けて西曲輪へ。西曲輪は廃嫡されて悲劇的な最期を遂げる義信が館を構えていたとのこと。父は追放、長男は幽閉死。戦国大名家に親兄弟との争いはよくある話ですが、信玄公もなかなかに業が深い武将です。

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神社前のお土産屋さんには武田グッズがいっぱい。ゆるキャラ菱丸君。ひこにゃんみたいに有名になれるといいですね。甲斐犬をモチーフにしてかわいらしいですが、やはり元祖として赤備えにしてほしかったかな。

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掌サイズの風林火山軍旗を買いました。職場に置いておりますが、なかなか仕事は疾きこと風の如くとはいきません。たまに火の如く怒られますが。

歴史好きでない人にはただの神社。けれど四天王や山本勘助や板垣信方ら古参の有力家臣団が幾多のドラマを繰り広げ、信虎が築いてから滅亡に至るまで武田3代の盛衰の舞台になった躑躅ヶ崎館跡。時間を超えて彼らと同じ場所に立っていることは、本当に感慨深いものがありました。

次は甲府市内の武田家史跡をまわります。
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# by utah_jazz12to32 | 2016-07-24 22:14 | 山梨県の城跡

水俣城跡と歌合戦(熊本県水俣市)

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戦国時代、相良氏の支配下にあった水俣城。
北進する島津軍に攻められ落城。豊臣時代は直轄地、小西領を経て、関ヶ原以降は加藤清正の領地になり、1612年幕命により破却されました。


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グラウンド整備時に発掘されたらしい石垣。


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本丸には石碑が立っていましたが、文字が読めずなんの石碑かは不明。


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唯一のちゃんとした遺構はこの古井戸跡のみ。


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清正時代に整備されたものでしょうか。所々に破却されたであろう石垣が残っています。


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城山の隣も小高い丘で、曲輪・土塁・・・だと思いたいのですが、公園として造成されたものなのか私には判別がつきませんでした。でも物見にはピッタリな気がするんだよなぁ。


率直に言いますと、何度も見に来るような遺構があるわけでもなく、発掘調査はされたものの保存状態も良いとは言い難く、イマイチな城跡なのですが、水俣城攻防戦を有名にした逸話があります。

天正時代、水俣城を攻める島津軍から打ち込まれた一本の矢文。それには「秋風や 皆また落ちる木の葉かな」の和歌が記してありました。秋に舞い落ちる葉っぱのように水俣城のお前らも全滅するんだよ、といったところでしょうか。

脅しとも挑発ともとれる島津軍の歌に対して相良軍も負けずに「寄せては沈む 月の浦波」と返歌を撃ち返したそうです。こちらは攻めるお前らこそ月の浦の岸壁に砕ける波のように沈みやがれ、みたいな内容。負けていません、相良軍。結局降参するんですけれども。

この歌合戦をかましたのは島津の重臣、新納(にいろ)忠元、相良方は犬童(いんどう)頼安だったと伝わります。新納は秀吉に対しても即座に返歌するなど、鬼武蔵と称されるほどの強さだけでなく教養のある武将としても評価の高い人だったようです。

戦の中にも日本人ならではの風流を感じさせる水俣歌合戦、数ある戦国時代の逸話の中でも非常に気に入っている話です。スピーカーを持ち出して大音量で相手を揶揄したり、それに激怒してミサイルを撃ち込むどこぞの国々はこういった風雅を見習っていただきたいものです。
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# by utah_jazz12to32 | 2016-01-12 23:14 | 熊本県の城跡

雲海と備中松山城跡(岡山県高梁市)

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現存天守で最も高地に位置する備中松山城。

「天空の城」として有名になった竹田城の余波で備中松山城も雲海に浮かぶ様が見られる城として注目を集めているそうです。竹田城は遠すぎるのと、なんといっても竹田城にはない現存天守がありますのでね。

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昔は案内も何もなかったようで、知る人ぞ知るだった展望台への道のりですが、今は案内板も整備され、迷うことなく辿り着けるでしょう。

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仮設トイレも設置された駐車スペース。朝5時前にはすでに停められず、少し下った所に路駐。
陽の上らない時間帯から行動する場合は明かり必携です。野生の猿の生息地でもあるようで、注意書きがありました。

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暗いうちはどこが城なんだかわかりませんが、雲海の動きはなんとなくわかります。
明るくなるとやっとあの家みたいなのが城か?とわかるように。展望台から手前右手の山に天守が見えます。
雲海は出たものの城の方までかからず、残念ながら「雲海に浮かぶ城」の景は見ることができませんでしたが、未明から夜明けを味わいながらなかなか趣のある普段と違った城巡りでした。

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展望台から戻ると私の車の後にギッシリと路駐の列が。黙って俺についてこい!みたいな。
良い場所をとりたいのであれば、防寒対策をしっかりして夜明け前から行動しましょう。

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遠方から眺めた後は実際に登城。シャトルバスで途中まで登り、そこから歩いて15分ほどで大手門跡の素晴らしい石垣群が。本丸への曲輪群も素晴らしいの一言。

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小ぶりながら独創的な形を持つ天守の内部には非常に珍しい暖をとるための囲炉裏が。畳はどこかで見た記憶がありますが、囲炉裏は初めて見ました。

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一般の観光客はだいたい天守を見たら帰ってしまうのですが、現存櫓の裏から奥にさらに古い時代の曲輪が広がっています。普段着で歩いて廻るには少々難儀しますが、備中兵乱の舞台となったこれらの史跡を見ずに帰るのはもったいなさすぎます。

※備中兵乱の経緯

宇喜多氏 「備前の三村の領土を奪うぜ!三村のボスを暗殺するぜ!URYYYYY!」

三村氏  「何をするだぁーっ!許さん!奪い返す!」 → 3万の大軍で攻めるも、宇喜多勢5千の待ち伏せに引っ掛かり、返り討ちに遭う。

宇喜多氏 「この勢いで備中にも侵攻するぜ!ヒャッハー!」 → 三村方の諸将寝返り相次ぐ。備中松山城も裏切りにより宇喜多方へ。

毛利氏  「宇喜多がのさばるとめんどくさい。三村とは同盟だし、ここは宇喜多を追っ払っておくか・・・。」 → 備中松山城、再び三村方へ。

宇喜多氏 「国内も安定していないし、とりあえずうちも毛利と同盟しよう。」 → 毛利これを受け入れ、三村ブチギレ。

三村氏  「毛利め、憎き宇喜多と結ぶとは!坊主憎けりゃ袈裟まで、毛利とは手切れだ!うちは織田と同盟する!」

織田氏  「同盟したはいいけど、うちは武田攻めで忙しいからまだ中国方面には行けないのよねー。」

毛利氏  「三村滅ぼして備中ゲットだぜ!」 完


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城から少し離れた所に尼子の忠臣、山中鹿介が刺客にやられた渡し場だった場所があり、後年に建てられた墓があります。

鹿介は我に七難八苦を与えたまえと月に願掛けしたそうですが、主家滅亡して捕まった上に便所の中を通って逃げ出し、織田に見捨てられて最後は暗殺と、十分すぎるほど願いは叶えられたのではないでしょうかね。
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# by utah_jazz12to32 | 2015-12-24 19:13 | 岡山県の城跡

清水宗治と備中高松城跡(岡山県岡山市)

大河ドラマ「軍師官兵衛」でも毛利攻めの重要な場面として登場した備中高松城。

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城跡は公園になっていて、城跡の遺構はほとんど残っていませんが、戦国史に名高い水攻めの痕跡が公園内や周辺に残されています。



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公園内に残る城主清水宗治首塚。豊臣側の降伏勧告に頑として応じず、最後は合わせて数万を超える兵に囲まれた中、浮かべた小舟で舞曲を舞い自刃。秀吉をはじめ、敵方からも称賛された見事な最期を遂げました。


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宗治自刃の地を伝える顕彰碑。公園から少し離れた所にあります。
本能寺の変が毛利側に伝わっていたら彼は死なずにすんだのでしょうか。


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公園周辺に残る水攻めの堤防跡。水攻めの策は秀吉が考えついたのか、如水が進言したのか正確な記録はありません。意外なところで川並衆だった蜂須賀正勝の発案だったのではなどと諸説ありますが、とにかく前代未聞の奇策だったことは間違いありません。とりあえず登って豊臣軍雑兵の気分を味わいましょう。

その後「のぼうの城」で有名になった忍城攻めや、紀州雑賀攻めなどで水攻めが取り上げられました。また関ヶ原合戦前に、家康が大垣城に籠る西軍相手に水攻めを計画していた説も。


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周辺の小山には吉川、小早川を主力とする毛利の援軍が陣を張ったのでしょう。しかし水に囲まれた高松城を救う術はなく、小早川隆景、安国寺恵瓊らが豊臣側と和睦交渉を開始します。和睦成立後、秀吉は中国大返し、山崎の合戦、清州会議、賤ヶ岳の戦いと歴史に残る戦と謀略戦を勝ち抜き、天下人への階段を一気に登り詰めます。もちろんその陰で如水が智謀を発揮したのでしょう。


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水攻めから400年経ち歴史公園として整備された高松城跡。整備にともない沼の復元を行ったところ、地中に眠っていた蓮が自生するようになりました。かつて城を守り、主家に殉じた清水宗治にちなみ「宗治蓮」と呼ばれ、7~8月には見事な花が咲きほこるそうです。

400年経って見事に忠義の花を咲かせた清水宗治。武士の鑑として蓮とともにその名が残すという、これをロマンと言わずになんといいましょうか。
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# by utah_jazz12to32 | 2014-09-15 13:36 | 岡山県の城跡

北の関ヶ原と上山城跡(山形県上山市)

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上山温泉と歌人斎藤茂吉でやや有名な山形県上山市。

古くは伊達政宗の曽じいちゃん、稙宗に攻め落とされたり、最上義光が得意の謀略で落城させたりと、幾度も争乱の舞台になった歴史を持つ城です。

中でも一番有名な戦となると、やはり直江兼次・前田慶次の活躍が知られる上杉軍の山形侵攻でしょうか。まぁ結局攻めきれずに逃げ帰ったんですけど。やや悪意ある表現ですが、上山市は父方の実家ということもあり、私は最上軍シンパなもので。

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本丸からの眺望。4000と伝わる上杉軍がこの城に向かって攻めかかりました。

山形侵攻では直江・前田の長谷堂攻めばかりが注目されがちですが、上山城も上杉軍の猛攻に耐えた数少ない城の一つでした。

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模擬天守は二の丸跡に建てられているそうで。

城将、里見民部は上杉方に内通しているとの噂もありましたが、500程の寡兵で数倍の上杉軍を撃退する活躍を見せました。しかし戦後、最上家嫡男の殺害容疑で加賀前田家に出奔。しかし最上義光の要請で連れ戻され、護送中に山賊(刺客だったとも)に殺害されました。そして里見一族も粛清されるという、悲劇的な運命をたどります。



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ちょっとわかりにくいところにある堀跡。水が枯れることがなく、水源は不明だとか。

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関ヶ原後に普請されたという、わずかに残る江戸期の石垣跡。


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紫衣事件で流罪になった沢庵和尚が愛でたという桜など。


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私事ですが、叔父によると我が家系のルーツは上山城に仕えた武士家系であったとのこと。明治に入り、武士として食えなくなったから旅館を始めたとかなんとか。松平、蒲生、土岐、金森と何度も城主が変わった上山城、どの時代の城主だったのですかねぇと尋ねるも、さすがにそこまではわからんと。残念。

斎藤茂吉ゆかりの宿(祖父が茂吉の甥)として古くから続いた実家の旅館ですが、祖父母・叔母と相次いで他界。跡継ぎがいなかったため、叔父が近年手放しました。

今は入ることのできない、小さいながらも温泉を備えたこの旅館。夏休みには毎年帰省して田舎遊びを楽しんだ、子供時代の思い出が残る懐かしい場所です。
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# by utah_jazz12to32 | 2013-08-13 19:51 | 山形県の城跡

吉弘統幸と石垣原古戦場(大分県別府市)

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吉弘統幸を祀る吉弘神社。

1600年天下分け目の関ヶ原合戦と同時期、全国各地でも「地方の関ヶ原」と呼ばれる衝突が勃発。
有名どころだと上杉vs最上の東北合戦や、文化人の討ち死には国の損失と、朝廷が文字通り調停に動いた丹後の籠城戦。そして大友vs黒田の石垣原合戦など。

石垣原合戦で討ち死にした槍の名手だったという吉弘統幸。全国的には無名すぎる武将ですが、吉弘家はもともと大友家庶流の名門。かの立花宗茂も出自は吉弘家で、吉弘統幸とは従兄弟の間柄でした。朝鮮出兵の失態で大友宗麟の息子である大友義統が改易されたのち、立花宗茂を頼って立花家に仕えていました。

徳川家康と石田三成が勧誘合戦を行うさなか、立花宗茂はかつて滅亡の危機を救ってもらい、大名に取り立ててもらった豊臣家への恩義を忘れず、勝敗を度外視して西軍につく決断をします。しかし吉弘統幸は大友義統の嫡子が徳川に仕えていた縁もあり、家康方について勝利すれば主家再興がかなうとの思いから、主君宗茂に暇乞いを申し出ました。立花宗茂も残念に思いながらも吉弘統幸の思いをくみ、餞別を与えて快く送り出しました。

ところが旧主大友義統は、吉弘統幸の必死の説得にも応ぜず西軍につくことを決断。大坂方に人質を取られていたとか、すでに軍資金や武器を与えられていたためだとか、父祖伝来の地である豊後への望郷の念が強かったなど諸説ありますが、やはりバカ息子は最後までバカ息子。

ここに至って吉弘統幸も最後まで旧主に従うことを決断。大友旧臣を中心とした3000と伝わる兵力で九州へ上陸。迎え撃つは隠居していたとはいえ、秀吉に天下を取れる器とまで言わしめた黒田如水。大友ラストスタンド!

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石垣原合戦、大友義統本陣跡。


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大友軍出陣の歌。どんなメロディなのやら。大友に不足はなくとも、黒田は義統相手では相当物足りなかったような。


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吉弘統幸陣跡。主君に涙で別れを告げての出陣。


合戦は如水の到着を待たずして開戦。大友勢は黒田軍を押し返す奮闘を見せますが、何度かの戦闘の末に数で勝る黒田軍が形勢逆転。吉弘統幸をはじめ、時枝、宗像などの大将格が討ち死にして敗北します。


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戦闘のあった周辺各所に石碑や陣跡があります。薬局の名前まで古戦場。


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吉弘統幸が最期を迎えたという七ツ岩。黒田八虎の一人、井上之房と一騎打ちの末に討ち取られたとも、手傷をおい自害したとも伝わります。


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今は公園の黒田如水本陣。敗北した大友義統は自刃しようとするも、家臣に諌められて投降を決意。縁戚だった母里友信の陣に投降。その後常陸に流されて一生を終えました。


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吉弘神社内にある宗幸の墓。辞世の句は「明日は誰が草の屍や照らすらん 石垣原の今日の月影」
吉弘家の武将は最後まで大友に尽くした忠臣揃いでした。


合戦後、吉弘統幸の首は石垣原に晒されてました。吉弘家の菩提寺・金宗院の住職が、供養のために何とか首を取り戻し、吉弘統幸の故郷である長岩屋まで辿り着きました。住職は首を取り出すと、長岩屋川で血と汚れを洗い流そうとしました。すると吉弘統幸の首が眼を開き、「あぁ!和尚よしな(吉名:やめなさい)」と叫んだとか。それ以来、長岩屋川を「吉名川」と呼ぶようになったということです。

ややホラーな逸話ですが、住職の洗い方が下手だったんでしょうか。
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# by utah_jazz12to32 | 2012-09-16 10:05 | 古戦場跡

有馬晴信と日野江城跡(長崎県南島原市)

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三大キリシタン大名居城跡を制覇するべく、有馬晴信の居城だった日野江城跡へ。

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※三大キリシタン大名=大村・有馬・大友。

私が称しているだけで、一般的に三大キリシタン大名と呼ばれることはありません。
高山右近・小西行長なども有名なキリシタン大名ですが、九州土着の大名で、さらに3人連名で天正遣欧少年使節を派遣したなどの実績を考慮しまして三大キリシタン大名と。
この呼称広まらないかなあ。

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日野江城は安土城のように、長い石段を備えた珍しい城だったそうです。
帰国した少年使節一行は、晴信へ成果報告をしにこの石段を登り登城したとか。
中浦はなんたってジュリアンさ(by戦国鍋)

残念なことにその貴重な石段遺構、今は埋め戻されてしまっています。
たまたま城跡を管理する職員の方がいらっしゃいまして、いろいろと話を聞く事ができたのですが、やはり管理・保存が難しいということで埋めざるをえないとのこと。

使節渡航中に三大キリシタン大名のうち、大村純忠・大友宗麟は死去。
さらに秀吉がバテレン追放令を発するなど、徐々に時代はキリシタン禁制へ傾きつつありました。
帰国した少年使節はその後伊東病死・千々石棄教・原国外追放・中浦殉教と、激動する時代に呑まれてそれぞれの人生を終えることになります。


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本丸に抜ける道沿いには学校はセミナリヨ跡。(by戦国鍋)
石垣は積み直しのようですが、やたらに広い二の丸、異様に狭い本丸近くの空堀などそれなりに見応えのある城跡です。

しかし日野江城の価値は遺構の規模や残り具合でなく、少年使節や城主晴信とその息子直純など城に関わった人物たちの生き様、またその後の歴史への関わり方にあります。

有馬晴信も大村純忠・大友宗麟同様浮き沈みの激しい人生を送りますが、その最期は岡本大八という同じキリシタンに騙され、大八の道連れのように九州から遠く離れた甲斐(山梨県)で斬首させられてしまうという、他の大名には例を見ない悲劇的なものでした。
大八事件以後、元はキリシタンだった晴信の息子直純も、幕府の禁教令に従い家臣・領内のキリシタンを厳しく取り締まるようになりました。
その後有馬氏は日向に転封、島原に晴信が築こうとしたキリシタン王国は完全に終焉を迎えます。

日野江城から3キロ余りの距離に支城として築かれた原城は、後に江戸幕府を仰天させる日本史上最大の一揆、島原の乱の舞台となります。
その一揆軍で中心的な役割を果たしていたのは帰農した有馬・小西の旧臣たちでした。
そして原城に籠城した一揆軍を囲む幕府軍に参戦していたかつての領主直純と対峙することとなります。

天草・島原は私が歴史に興味を持つきっかけとなった、思い入れの深い土地なのです。
各自治体はキリシタン大名の生き様の面白さを、もっともっとアピールしていただきたいと思う次第。
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# by utah_jazz12to32 | 2012-07-11 00:55 | 長崎県の城跡

大友二強と猫尾城跡(福岡県八女市)

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女優黒木瞳さんの出身地、旧黒木町にある猫尾城跡(画像は本丸跡)。
公園になり、遊歩道が整備されていますが、散策すると中世山城の特徴である空堀跡や、二の丸や三の丸、馬場などの曲輪跡がよく残っています。


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木の根元に残る石垣跡。よく見ると草だらけなのがもったいないくらい、そこかしこに往時の遺構が残っています。


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二の丸と本丸の間にある馬場跡。


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本丸跡に建つ籠城戦戦没者慰霊の碑。


もともとは大友方に属していた黒木家ですが、大友氏が島津氏に耳川の戦いで大敗を喫して弱体化。まさに好機と「肥前の熊」龍造寺隆信が筑後地方に侵攻。一度は龍造寺氏に反目した黒木家ですが、周辺の国人の仲裁もあって龍造寺氏の傘下に収まります。

ところが驕れる者久しからず。今度は沖田畷の戦いで龍造寺が島津にまさかの大敗を喫し、隆信はあえなく敗死。すると筑後地方の勢力挽回を目論むかつての主家、大友家が侵攻。猫尾城を包囲します。

城方の頑強な抵抗と、耳川の敗戦で歴戦の将を数多く失っていた大友軍は攻め手を欠き、戦況は膠着状態に陥ります。大友方は援軍に立花道雪と高橋紹運という、大友二大最強武将を送り込みます。シャアとアムロが攻めてきたかのような戦力増強に、城方はなおも善戦するも防戦かなわず、落城の仕儀と相成りました。


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二の丸跡に鎮座する石仏。
籠城戦で亡くなった兵たちの慰霊でしょうか。

敗軍の将黒木家永は切腹。この時家永を介錯したのは、彼の13歳になる娘で、介錯後に父の首と刀を大友方目がけて投げつけたという逸話が残っています。

猫尾城を落城させた後、なおも筑後地方の失地回復に奮闘した立花道雪は、翌年柳川城攻めの最中に陣没。魂ともいえる家中の柱石を失った大友に、九州の覇を取り戻す力はもう残されていませんでした。

道雪が没したその翌年、今度は大友最後の柱高橋紹運も、自らが猫尾城を攻めたように、大宰府の岩屋城を4万とも5万とも伝わる島津の大軍に包囲されます。760余名の兵を指揮し、絶望的な総力戦を半月持ちこたえた紹運でしたが、ついに力尽き岩屋城の露と消えました。

諸行無常。
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# by utah_jazz12to32 | 2012-03-30 06:21 | 福岡県の城跡

九州を中心に有名無名問わず、城跡の散策・撮影と歴史背景を探索


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